昭和五十年五月三十日 御理解


 第七十節
  人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせ  ねばならん


天地を開けし道を人々のふみ行く心一つなりけり
この詠は久留米の初代に石橋先生の式年祭の時に、偲び草として頂いた袱紗に書いてある、これはお詠でございます。
石橋先生の作か何か、書き遺されたものに、この詠があったと言う事を聞きましたけれども、石橋先生の作ではなかろうと思うのです。袱紗に書いて、これはお詠でございます。       天地のひらけし道を人々のふみ行く心一つなりけり。
天地の開ける音を聞いて目をさませ、と教祖のみ教へにあります。天地のひらけし道と言うか、言うなら、天地の道理に合った道があるけど、それを申しますとみ教へに基付いた生活をすると言うこと。これは、なぜそう言うことが言えるかと言うと、教祖様のみ教への中には、道理に合わないと言うみ教えが一つもないからです。                         沢山宗教がございますけれども、どんなに考えても、道理に合わない信心が沢山ある事です。
金光様の信心はどこをどうひもとかせて頂いても、道理に合わない、これはおかしいなと言うところがない。
私は、天地のひらけし道をと言うことは、教祖様の教えによって開かれた道と言う事を言っておられるのであろうと、人々のふみ行く心、人々がそれを行じて行く心が天地と一つになれる道だと言うような風に思うのです。
今日、この七十節を頂いて、道理に合う信心をせねばならぬ。言うならば、人間の幸せの原理とでも申しましょうか、現代風の言葉で言うと、この道はそう言う事になるのじゃないでしょうか。人間が幸せになるためには、人間は万物の霊長であるからと、万物を見て道理に合う信心、人間は万物の霊長であるから、霊長としての霊長なら霊長らしい行き方をすると言うことは、道理に合うた行き方をせねばならん。それが幸福の言わば原理である。
そこで、私共は、道理に合うその道理をまずわからして貰うと言う事である。
例えば、仏教で生き物を殺すと言うことは、憐れむ、情けからでしょうけれども、魚を・・・教へ、戒律と言うものがあります。キリスト教あたりでも随分そう言う戒律と言うものがある様です。第一お酒を飲んではいけない、と言う様な。又は仏教なんかでは、本当の教へを頂くためには、妻帯はしてはならないと言う様な、厳しい掟すらがある様です。
どんなに考えても人間としての、言うならば、万物の霊長としてのふみ行く道ではなさそうにある。金光様の御信心はもう実に、そう言う意味でです、天地の心を心としての行き方、天地の道理を陰陽の道理とも言う。男女のことは陰陽の道理に合うた行き方、陰陽合体、そこから子孫繁盛、家繁盛、言うならば家の栄え、国の栄えと言うものがあるのです。
それを例えば、いけないという様な行きかた、例えば食物のことでも、肉を食べてはならん、魚を食べてはならない、酒も飲んじゃならないと言うものではなくてです、一切を天地の親神様のお恵みを。
どんな風なお恵みかと言うと、言うならば、人間に食べさせたいと言う神様の願い、人間の言うならば幸せをはかって下さっての願い、だから食物は人間の命のために天地の神が作り与え給うものと言うておられる。
天地の神様が、私共の為に作り与えて下さったものをです。あれは食べられん、これは飲んじゃ御無礼になる、と言った様なことのあろう筈がない、勿論、大酒、大食は絶食の元になると言う様に、過ぎることは許されませんけれども、それを適量に適当に頂く事は決して無礼ではない、と言う風に説いてある。
この食物訓の一つを見ても、金光様の信心は道理に合う事がわかる。
昨日は、教神会でございましたが、まあいろいろお話しを、私はおばあさん達ですけれども、やはり月に一回しか御参りが出来ん、二回しかお参りが出来んと言う方達ばっかり、殆どですけれども、おかげの泉を熱心に読んでおると言う事を聞いてから、本当に感心いたしました。
これは、大城の高山さんが言うとられましたが、ちょいと此処の親先生ばかりは神様、と言う話をされました。
あの御理解を読まして頂けば頂く程、普通の人間ならこげな事はとても言いはきりめえと私は思う、と言うてから話をしとられました。
いつのおかげの泉かわかりません、知りませんですけれども、帰命朝礼と言う御理解があった。それに、林喜久蔵と言う、まあが落語家の話から、御理解をなさっとられる。あげな知恵は普通の人間では出らんと。そう言う意味で、おかげの泉は有難い、とこう言っとられるわけです。
だから、私共の言うならば、知恵力でです、私共は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心とよう言われるけども、ならどこか道理に合うのか、これが道理に合うのだ、合わんのだと言うような人間が測り知ることの出来ない道理があると言う事である。それを言うならば、神様の英智とでも申しますかね。神の知恵をもって説いて下さる。
然も、道理に寸分違わぬ道理をもってお説きになってある。教祖の神様のそう言うお言葉であるとか、み教えと言うものをです、又、合楽では間違いのない、言うならば説き方と言うか、み教えを、言うならば噛んで含める様に説いてある。然も、それを行じようと思えば有難く行じることが出来る。
私は道理、道理と言うてもです、それを道理と思うておるけれども、でない場合がある。それを此処では常識とか、非常識とか、又は超常識とかと言う風に言います。だから非常識と言うのはこれは、愈々いけません。けれども、非常識と超常識と言うのは、もう紙一重と言うものなんです。
それで、なら超常識的な考え、これが道理だとは本当は違っておる場合がいくらもあるのです。ですから、どうしても神の言うならば、英智に依らなければならない。
天地の道理と言うのは、そのまま天地の道理である。その天地の心とある場合は悟り、ある場合は神の英智に依ってわからしてもらう。
昨日、敬親会の方達にこう言う話を中心に話さしてもらった。
人間の一番幸せな生き方、又は思い方と言うのはどうでも良いと言う心をつくることですよ。どうぞ右になります様に、左になります様にと言うて皆が願っている。自分の願い通りになればおかげを頂いたと思い、又は信心を抜きにしてもです、自分の思う様になると自分の心も落ち着いとるけれども、自分の思う様にならんといらいらする。これでは、人間の幸せな行き方と言うものは生まれて来ない。
けれども、私共のいろんな欲望とか願いと言うものがあるからこそ、信心しとると言う人も大多数でございましょうけれども、そこをお道の信心では、お取次を頂くと言うのである。
どうぞ右になります様に、左になります様にと言う願いをさせて頂きながら、おかげを頂きながら、神様の働きを体験させてもらう。段々、そう言う信心が出来てまいりますと、最近、合楽の信心の一番新しい信心と言うならばです、この、どうでも良いと言う心をつくる事なんです。
降るが良い、照るが良い、もうそれを一切任せた、言わば降るが良いと例えば思いましてもです、それが照るならば、その事点を有り難く受けて行こうと言う行き方です。
昨日、熊谷さんがお届けをなさいます中に、皆さん御承知の様に、あちらは大変大きなお家です。それがこんど宅祭りをなさる前に、改築と言うかね、造作がありました。それを或る大工さんに言うて、二月から頼んである。それを昨日、すぐ隣りのお方が、あなた方は大工さんが来よんなさるごとあるが、何処をどうしなさったかと尋ねられたから、こんな風で、部屋のあっちこっちを変えた事やら、いろいろ話された。
そして、大工さん誰れ誰れさんのこと。この人は仕事は上手じゃけれども、兎に角、一日二日 仕事に来ると十日位休む、また来るとまた休む、なんのちょこっとばかりのことが、二月からまあだ終わってないと言うのです。
もうこれがね、普通で言うなら、もういらいら、もやもや文句の一つも言いたいとこ、いつまでかかりますか、なんかりなんかりしてから、バタバタやって下さいと言いたいと、こうですけれども、お取次を頂いてお願いをしてあることですから、もうよいてまに神様が良い様にしてくださる。もう大工さんじゃないです、神様がして下さると思うとりますから、一つも、おかげで、以前の私なら喧しくう言ったことでしょうけれども、丁度それが、親先生がお出でて頂くときには、親先生の入って頂く部屋がキチンと出来とったし、または、お手洗いのところもキチンと出来とったし、まあだ完全に済んどるわけではないですけれどもです、もう、神様は何とも言えん御都合お働きの中に、まあおかげを下さると言うて、お届けをなさっとられる。
私は、そう言う行き方です、如何にものんびりしとる様であっても、心がいつも平常である。これは、本当に今の合楽の信心に同調しよるしるしだと言う風に思うんですけれども、まあだ完備してないです。
まあ一番大事なお布団を入れる押し入れの所が半分しか出来てないです。電話かけちから、やあやあ言う事もない。それが心に引っ掛からんで済むと言う心の状態になった時に、どうでも良いと言う事です。
その、どうでも良いと言う心を作るために、一つどうでもなると言うか、ねがいが成就すると言うか、間違いのない行き方をです、合楽の場合は二十五年間続けて来たわけです。そして、神様の間違いなさをわからして頂いて、一分一厘間違いのないお働きと言うものを、私共は、それでもう終わるかと思うておった。ところが、それでは本当の幸せではない、いつどう言う風に神様の、言うならば、お働きと言うものが変わって来るかわからない。二十五年間、言うならば春秋の大祭にお湿りがある事がなかった。合楽に今年の御大祭に、御大祭にづっと雨が降ると言う訳でもないでしょうけれども、お湿りがあった。
何かと言うとお湿りがある。何かあるごとお湿りがあれば、合楽の信心に続いておると喜ばれる位、お湿りにこの頃は恵まれておる。そう言う、降っても有難いなら、照ってもまた有難いと言う様な心の状態こそが有難いと言うのです。
と言うて、願ってならないというのではない。願うそこに、お取次を頂いて、何日、何日はこうこうですから、どうぞお天気お繰り合わせ頂きます様にと言うてお願いをして、例えば、雨が降ったと言う時にはです、そこんところを有難くお取次を頂いての事だからと、お礼を言う心の状態、そう言う心の状態が開けた時に人間は本当の幸せだと言うこと。
昨日、おばあさん達に、私がお話を致しましたのも、子供達が孫達が、自分の言う事を聞かん、自分の思う通りにして呉れない、痒かところに手の届く様にして欲しいけれども、それとは反対の様な時でもです、でなからなければならないと言う考えを、言わば捨てると言うことは、幸せになれれる考えですよと。そこに、例えば熊谷さんのです、どうでも良い、やあやあ言わんでも良いどうでも良いと言う働きの中には、神様はいろんな意味でです、丁度その部屋を使わんならん時には、その部屋が出来よっておると言う様な、そういうお繰り合わせの中に、おかげを頂いて行けれるのです。
だから、信心が大きくなって来る。これは、天地の道理に合った行き方なんです。天地の働きそのものをです、右にしよう、左にしょうと言う考え方でなくて、神様の方は願わんでも右の方になって下さり、左の方になって下さる様な行き方を、身につけて行くことが、私は天地の心がわかった人の上にです、現れて下さる天地の働きと言う風に思います。
天地のひらけし道を人の身に人々のふみ行く心一つなりけり、何かこの詠の意味はよくわかりませんけれども、今日の御理解を頂いとって、言わば、天地の心と一つなりけりと言うところが、わかる様な気が致します。
神様が右と教えようと思うても、私共が左が良いと言うて願って、それを例えば、あんなに頼むから仕方がないと言うて下さるおかげと、神様が私共と一つになって下さるおかげ、それには私共が言うならば、どうでも良いと言う神様の働きを信じておるから、どうでも良いと言うおかげが生まれて来るのです。だから、信心のない者が、それはどうかなるがのと言うて、それは鍋の中のドジョウでさえ、どうかなるがと言うのでなくて、とは違うのです、投げやりではないです。
神様の働きと言うものを信じておるからこそ、どうでも良いという心が生まれてくる。そう言う心の状態が、私は天地の道理に一つになった頃の状態であると思います。ギリギリのところ、私共の言うならば願いが成就することでなくて、言うならば、神様の願いが成就して行くと言う行き方、そう言う行き方に私共が合流する時に、後にそれを分からして頂く事は、かみさまの願いが成就しておることは、そのまま私共の願いが成就しておるんだと言う事が、わかると言う事が天地の心と一つになっておると言う事になるのです。
今日は、大変難しい事を聞いて頂いたんですけれども、一つね、どうでも良いと言う心の状態をね、ひらかして貰うお取次を頂いて、その後は、あなたにお任せすると言う心の状態なんです。
そこから、私は人間の幸せの原点とでも申しましょうかね、人間が万物の霊長としての値打ちのある生き方、また万物の霊長らしい生き方、その生き方こそが、天地の親神様のお心と一つになった生き方であると言う様なことを、今日は聞いて頂きましたですね。                                               「 どうぞ 」